こんにちは、佐々木かえでです。
自分のことを主フとは思っていないですが、分かりやすくこう書きました。
毎日自分で料理を作っていると、自分の料理から味がしなくなることないですか?
自分の料理から味がしなくなることってない?
配偶者とある程度家事分担をしているので主フではないのですが、うちの料理担当は私です。
料理を毎日作っていくのですが、何日も自炊が続くとある日
「あれ……食べているのに幸福感がないな」
という感覚になります。
自分の味付けは気に入っていて特別料理が下手なわけではないのに、味がしない・おいしくない状態に。
で、自分で料理を作るのが嫌になって、外食に行くと直る。
「たまに外食に行きたい!」というのは当然のことなのかもしれないです。
でも、そうなった時は必ず「自分以外の誰かが作った料理が食べたい!」という強い気持ちが底にあってですね。
「この気持ちはなんだろう……?」
と谷川俊太郎の「春に」ばりに疑問に思ったので掘り下げてみました。
自分以外の手が触れた食べ物には愛情が入りこむ
これはスピリチュアルな話ではないので安心して聞いてほしいのですが、食べ物を通じて愛情が欲しいんです。私は愛情が欲しい。
もう見出しで言っちゃってますよね。
少しでも誰かの手が触れた料理には「愛」が入っていると思うんですよ。愛情を込めたか込めなかったかに関わらず否応なしに入ってしまう。
毎日自分で作っていると、なぜだか心が虚無ってくるんです。
自分の料理は大好きで世界一好みなんですが、そればっかりになるとお腹だけ満足して心は満足できない。野菜もタンパク質もたくさん入れるのに。
家族と一緒に食べるのは楽しいし幸せな気持ちになりますが、正直なところなんとなく自分だけ損をしている気持ちになります。(自分が作った料理を「おいしい」って食べてもらえるのは大好きだし誇らしいので別の問題ですね)
たぶん、「自分も与えてもらいたい!」からです。
料理を作る時間≒自分のために労力を使ってくれた時間。
もちろん自分だけのためじゃないんですけど、そこには私の食べる分も入っているわけで。
だから、人が作った料理を食べると
「この人は私に時間を使ってくれた」
「私はこの人の時間を使ってもいい人間なんだ」
という自己肯定に繋がります。意識はしなくても。
実家に遊びに行くとたくさん手料理を出してくれるのですが、これが本っ当に最高!
100%自分のために作ってくれる+おいしい+おいしくて楽しい時間+おいしい
誰かの優しい気持ちを受け取るとマジで幸せになりますね。
配偶者がたまに簡単な料理を作ってくれた時も心からおいしく感じます……。
お金を払って作ってもらう外食でも、「自分以外の誰かに与えてもらった」という項目によりやはり愛情が少し補給されます。もれなく人と目を合わせますし。
料理を通じて人と関われるってところもあります。
食事から得る他者との繋がり
自分以外の人が作った料理って基本的な味付けを自分でいじくれません。せいぜい塩コショウとか調味料かける程度。野菜の切り方とか、自分とはやり方が違ったりする。
それを摂取することが、他人と繋がっている感覚になるんですよね。自分と違うものを取り入れる感覚です。
それがなんだか暖かくて、幸せな気持ちになります。料理の出来不出来の話ではなく。
他者と関わらないと人間は死んでいくんです。
「人と触れ合うことなく声も聞かされず必要最低限の世話だけをする」という実験をされた赤ちゃんがみんな死んだという話もありますし、やはり人には愛情が必要なのです。
自分で作っても自分の愛が入り込むだけですからね~。
これは下ネタですが、自分でやるのもいいけどたまには人とやりたくなるじゃないですか。単純に味付けに飽きるってだけじゃなく。
それと同じことです。自家発電では愛は補充されないのです。
人が作った料理を食べる機会がなくなって、あるいは「食べられるけど食べない」という選択の余地がある状態(愛情をいつでも受け取れる状態)でなくなって初めて、人が料理を作ってくれていることで得ていた愛情の大きさを知るのかな~なんて思います。
それくらい正体不明の自然な愛情なんです。
これは親元を離れて自分で家事をする大学生に対して周りが言う「親のありがたみが分かったでしょ」とはまた違う話です。別に洗濯とか掃除は自分でやっても変わらないので。あと、大学生側が自分から親に感謝の意を表明するのはいいとして、家庭によっては小中学生でも家事めっちゃやってるのであまり周りの人間に軽はずみに言ってほしい言葉じゃないですね~。あ、これは大人への反発です。
上手く言えないな……
色々と上手いこと言いたかったですが、よく分からなくなったので今日はここでやめますね。
この話、前も書こうと思ったけど断念したんですよね~難しい。
まあいいや、言いたいことはだいたい言えたと思います。それでは!